シニア向けビジネスの可能性
~重く暗い課題を放置しないベンチャースピリッツ~
講師 MIKAWAYA21株式会社
代表取締役社長 青木慶哉 氏
【講演概要】
新聞販売・iPhone販売のトップ経験を持ちながらも、インターネ
ットへの時代変化を積極的に受け止める必要があると実感。新聞読
者を一軒ずつ訪問しインタビューしてみると「野球観戦チケットや
洗剤より、草取りや電球交換を頼みたい」との声だった。そこで遠
くの家族より地元の新聞屋を頼りにしてもらおうと「まごころサポ
ート(生活支援サービス)」を始めたところ大変好評を得た。
今後、人類が経験したことの無い超高齢社会を迎える日本。労働
人口が減少し介護保険サービスも限定されていくだろう。孤独死の
うち死後15日以上気づいてもらえない人が30%以 上というショッ
キングなデータは厳しい現実を象徴している。
私たちは、まごころサービスを地域に留まらず全国に拡げるため
「MIKAWAYA21」を立ち上げ、「シニアの毎日に豊かさを」「すべて
のシニアに良き隣人を」と掲げた。モノやカネに囲まれても幸せで
はない。孤独の解決こそ最大の使命、人生を謳歌した先輩方の姿が
あれば次の世代に豊かさが繋がっていくに違いない。
全国展開開始から4年の間に、41都道府県で44業種211加盟店が誕
生した。Googleや新聞社など大手企業の支えも大きな力になってい
る。
ハウスクリーニング、病院付き添い、遺言作成や不動産売却、高
齢者施設探しなど毎日多くの依頼が届く。それらに対して単なる作
業会社にならず、お客様との会話から信頼関係を生むことこそが一
番大切と考えている。そこでシニアとのおしゃべりを担当する「コ
ンシェルジュ」(有償ボランティア)を募集した。会話の中から発生
した仕事依頼で利益の半分を支払う業務委託契約。現在約1200名が
好きな時間に活躍してくれている。
こうしたシニアの心を癒すサービスと同時に、テクノロジーを活
かしたシステムによる事業拡大も目指している。「マゴコロボタン」
は日々のゴミ出し案内や災害情報が音声で配信されるだけでなく、
困ったときにボタンを2回押せばコールセンターから電話がかかる
システム。また電波を使って人の行動や空間の状況を認識するWiFi
センシングや、顧客データを蓄積するCRMシステムを活用した「みま
もり&サポートシステム」も進行中。必要性に応じてひとつずつ開発
していきたい。
さらにシニアにとって人生の豊かさは居場所と役割が必要との考え
から、シニアが手料理を提供する食堂やオフィス街にヘルシー弁当を
提供する取り組みも大変注目されている。
浜松には既にお客様との信頼関係を結んだ企業がたくさんある。未
来を明るくするため、皆様と連携し一緒に新たなまごころサービスを
展開していけたらと願っている。
2023年10月26日(木)21 世紀倶楽部月例セミナー
家康公ゆかりの浜松市の歴史遺産
講師 浜松市文化財課
專門監 太田好治 氏
【講演概要】
徳川家康は岡崎生まれだが、浜松で過ごしたのは約17年間。一か所
で過ごした期間としては最長であり、駿府で過ごした年月を加えると
人生の半分以上は静岡県人だったと言っていい。
浜松城は前身の引間城の時代から400年の歴史があり、4つのステー
ジに分けられる。①今川氏の家来が治めていた引間城時代 ②家康が家
来を引き連れ浜松に入り、城下町を形成した時代 ③天下人になった秀
吉の家臣が城に入り、初めて天守閣を築いた時代④家康が天下人とな
り家康の家来が治めた時代。
引間城は現在の元城町東照宮付近にあった。川幅の広かった馬込川
の西岸には当時の中心地ともいえる引間宿が発達し、その西の丘陵地
に城があった。家康も初めて浜松に来たとき引間城に拠点を置いた。
西側に砦を拡張し、家臣たちに城下へ分散して屋敷や砦を造らせた。
全体をひとつの城と見るにはまだ十分とは言えないものだったと思う。
それが秀吉の時代になり城の姿は一変。パフォーマンスが得意な秀
吉は天守閣を建築した。城下町の重要なエリアを向いて造られる天守
閣が、東北東を向いていることから、当時の町の中心は東海道筋より
北側(元目や早馬など)にあったと考えられる。
現在の浜松城天守閣は昭和33年に建てられたものだが、私は浜松城
の天守閣をイメージするには松江城が参考になると考えている。秀吉
家臣の堀尾吉晴は浜松城主を務めた後に松江城を建てた。松江城の石
組みなどは浜松城と形が似ている。
最終的に、江戸時代となり浜松へ与えられた石高は、天守閣のメン
テナンスができるような経済力を与えられていない。さらに東海道が
再整備されたとき、天守閣があればメインストリートの目印にしてい
いはずだがその様子もない。個人的見解だが、江戸時代に入った早い
段階で天守閣は取り払われてしまったのではないか。
こうした背景を見ると、ここまで浜松が発展してきたのは幕府のお
陰というより、城下町と宿場町を兼ね備えた浜松の人々の力が大きか
ったのだと思う。
三河と遠江の国府を結ぶ東海道は奈良時代から、浜名湖の北側と南
側を通る二本があった。しかし、天竜川の洪水で分断する被害がたび
たびあり、東海道はさまざまに変化していく。やがて川を渡る場所に
宿場ができ、陸上と水運交通の接続点として賑わうようになる。これ
が「引間の宿」であり浜松発展の一番の基になるところではないかと
思う。
遠江を侵攻した際、武田信玄は北側東海道(姫街道)をほとんど掌
握していた。仮に武田が天下を取っていたら、南側東海道の引間では
なく、北側東海道の都市であった有玉付近が発展して、今は浜松市役
所もそのへんに建っていたかもしれない。
歴史を振り返るとき、過去の地形が現在のままでないことを念頭に
考えていくと、さらに浜松の理解が深まると思う。