家康公ゆかりの浜松市の歴史遺産 講師 浜松市文化財課 專門監 太田好治 氏 【講演概要】 徳川家康は岡崎生まれだが、浜松で過ごしたのは約17年間。一か所 で過ごした期間としては最長であり、駿府で過ごした年月を加えると 人生の半分以上は静岡県人だったと言っていい。 浜松城は前身の引間城の時代から400年の歴史があり、4つのステー ジに分けられる。①今川氏の家来が治めていた引間城時代 ②家康が家 来を引き連れ浜松に入り、城下町を形成した時代 ③天下人になった秀 吉の家臣が城に入り、初めて天守閣を築いた時代④家康が天下人とな り家康の家来が治めた時代。 引間城は現在の元城町東照宮付近にあった。川幅の広かった馬込川 の西岸には当時の中心地ともいえる引間宿が発達し、その西の丘陵地 に城があった。家康も初めて浜松に来たとき引間城に拠点を置いた。 西側に砦を拡張し、家臣たちに城下へ分散して屋敷や砦を造らせた。 全体をひとつの城と見るにはまだ十分とは言えないものだったと思う。 それが秀吉の時代になり城の姿は一変。パフォーマンスが得意な秀 吉は天守閣を建築した。城下町の重要なエリアを向いて造られる天守 閣が、東北東を向いていることから、当時の町の中心は東海道筋より 北側(元目や早馬など)にあったと考えられる。 現在の浜松城天守閣は昭和33年に建てられたものだが、私は浜松城 の天守閣をイメージするには松江城が参考になると考えている。秀吉 家臣の堀尾吉晴は浜松城主を務めた後に松江城を建てた。松江城の石 組みなどは浜松城と形が似ている。 最終的に、江戸時代となり浜松へ与えられた石高は、天守閣のメン テナンスができるような経済力を与えられていない。さらに東海道が 再整備されたとき、天守閣があればメインストリートの目印にしてい いはずだがその様子もない。個人的見解だが、江戸時代に入った早い 段階で天守閣は取り払われてしまったのではないか。 こうした背景を見ると、ここまで浜松が発展してきたのは幕府のお 陰というより、城下町と宿場町を兼ね備えた浜松の人々の力が大きか ったのだと思う。 三河と遠江の国府を結ぶ東海道は奈良時代から、浜名湖の北側と南 側を通る二本があった。しかし、天竜川の洪水で分断する被害がたび たびあり、東海道はさまざまに変化していく。やがて川を渡る場所に 宿場ができ、陸上と水運交通の接続点として賑わうようになる。これ が「引間の宿」であり浜松発展の一番の基になるところではないかと 思う。 遠江を侵攻した際、武田信玄は北側東海道(姫街道)をほとんど掌 握していた。仮に武田が天下を取っていたら、南側東海道の引間では なく、北側東海道の都市であった有玉付近が発展して、今は浜松市役 所もそのへんに建っていたかもしれない。 歴史を振り返るとき、過去の地形が現在のままでないことを念頭に 考えていくと、さらに浜松の理解が深まると思う。
2023年10月26日(木)21 世紀倶楽部月例セミナー
家康公ゆかりの浜松市の歴史遺産
講師 浜松市文化財課
專門監 太田好治 氏
【講演概要】
徳川家康は岡崎生まれだが、浜松で過ごしたのは約17年間。一か所
で過ごした期間としては最長であり、駿府で過ごした年月を加えると
人生の半分以上は静岡県人だったと言っていい。
浜松城は前身の引間城の時代から400年の歴史があり、4つのステー
ジに分けられる。①今川氏の家来が治めていた引間城時代 ②家康が家
来を引き連れ浜松に入り、城下町を形成した時代 ③天下人になった秀
吉の家臣が城に入り、初めて天守閣を築いた時代④家康が天下人とな
り家康の家来が治めた時代。
引間城は現在の元城町東照宮付近にあった。川幅の広かった馬込川
の西岸には当時の中心地ともいえる引間宿が発達し、その西の丘陵地
に城があった。家康も初めて浜松に来たとき引間城に拠点を置いた。
西側に砦を拡張し、家臣たちに城下へ分散して屋敷や砦を造らせた。
全体をひとつの城と見るにはまだ十分とは言えないものだったと思う。
それが秀吉の時代になり城の姿は一変。パフォーマンスが得意な秀
吉は天守閣を建築した。城下町の重要なエリアを向いて造られる天守
閣が、東北東を向いていることから、当時の町の中心は東海道筋より
北側(元目や早馬など)にあったと考えられる。
現在の浜松城天守閣は昭和33年に建てられたものだが、私は浜松城
の天守閣をイメージするには松江城が参考になると考えている。秀吉
家臣の堀尾吉晴は浜松城主を務めた後に松江城を建てた。松江城の石
組みなどは浜松城と形が似ている。
最終的に、江戸時代となり浜松へ与えられた石高は、天守閣のメン
テナンスができるような経済力を与えられていない。さらに東海道が
再整備されたとき、天守閣があればメインストリートの目印にしてい
いはずだがその様子もない。個人的見解だが、江戸時代に入った早い
段階で天守閣は取り払われてしまったのではないか。
こうした背景を見ると、ここまで浜松が発展してきたのは幕府のお
陰というより、城下町と宿場町を兼ね備えた浜松の人々の力が大きか
ったのだと思う。
三河と遠江の国府を結ぶ東海道は奈良時代から、浜名湖の北側と南
側を通る二本があった。しかし、天竜川の洪水で分断する被害がたび
たびあり、東海道はさまざまに変化していく。やがて川を渡る場所に
宿場ができ、陸上と水運交通の接続点として賑わうようになる。これ
が「引間の宿」であり浜松発展の一番の基になるところではないかと
思う。
遠江を侵攻した際、武田信玄は北側東海道(姫街道)をほとんど掌
握していた。仮に武田が天下を取っていたら、南側東海道の引間では
なく、北側東海道の都市であった有玉付近が発展して、今は浜松市役
所もそのへんに建っていたかもしれない。
歴史を振り返るとき、過去の地形が現在のままでないことを念頭に
考えていくと、さらに浜松の理解が深まると思う。