日時:2021年3月 9日 10:48 投稿者:pt21c

講師:方広寺派管長・県仏教会会長 安永祖堂 氏
演題:心に響く禅のことば
【講演概要】
 漫画家深谷かほるさんの「夜廻り猫」という8コマ漫画に、雨降る中
「濡れると滑って危ないから」と道を拭き続ける猫のエピソードが描か
れていた。私はこれぞ「擔雪埋井(たんせつまいせい) 」の姿だと思
った。「擔雪埋井」とは仏道修行における志の言葉。水に溶けてしまう
雪を担いで井戸を埋めるという意味で、終わりなき永遠の努力をする大
切さ、報いを求めない無償の努力の大切さを説いている。
 今や漫画は日本文化の立派な表現媒体のひとつとして市民権を得た。
明治時代に「文化」は「culture(人の手の入ったもの」と訳され、対
義語は「nature(自然)」となった。つまり人の手の入った文化はある
時代の特定された人たちの考えや行動スタイル、心によって異なるとい
える。仏教内でも宗派によりさまざまな違いがあるのだから、仏教とキ
リスト教など宗教が変わればさらに大きな違いがあるのは当然といえる。
 例えば、仏教界で自然とは「じねん」と読み、「自ずから然る」が本
来の意味。私たち日本人を含む東アジア人にとって人間は自然の一部と
考えるのが一般的だ。しかし、欧米などキリスト教の感覚では「人間は
自然を管理することを神から任された存在」と捉える。どちらの考えが
良い悪いではなく、こうした違いを抑えなければ地球という運命共同体
では誤解や反論を生む恐れがあることを知っておくべきだろう。
 「慈悲」とは実に奥の深い言葉だ。こんな話がある。高齢の父がうっ
かり転んでしまったとき、娘は父を助け起こすのではなく、自分も転ん
でみせたという。相手の一段高い位置から手を差し伸べるのではなく、
「同悲・同苦」こそが本当の慈悲ではないかという問題提起だ。他人の
喜びや悲しみを自分の喜び、悲しみにできるか。禅の世界でいう「無我
の境地」という考え方をどう活かすか、皆さんもご自身の足元を振り返
ってみてほしい。
 金子みすゞ記念館矢崎節夫館長談の記事を紹介しよう。「あなたと私、
私とあなた、順番が違うだけで全く意味が変わる。しかし意味の違いよ
り大事なのは、私・あなたと違いを付けている限り救われることはない
(概要)」とあった。これは光と影、水と氷、影があるから光を描くこ
とができ、迷いがあってこそ悟りがあるということと同じだ。
 私たちは現在、能率や費用対効果など合理的な世界を生きている。経
営の世界に身を置くと「擔雪埋井」の考えなど程遠いと思うかもしれな
い。しかし住友を再生させた立役者である広瀬宰平、伊庭貞剛のお二方
とも生涯座禅を組んでいた。
 「君子財を愛す、これを取るに道有り」という禅の言葉がある。目の
前にある事柄からさらにもうひとつ抜き出た世界を見なければ本物の経
営・経済活動を成すことはできない。道とは何か?こうした学びは回り
道に見えるかもしれないが結局近道となり、日々の営みに通じていくの
ではないかと思う。


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