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日時:2013年11月 5日 15:54 投稿者:pt21c

2013年10月22日(火)21世紀倶楽部月例セミナー

  演題  『武士の家計簿』の著者が語る浜松の歴史

  講師  磯田道史氏

       静岡文化芸術大学文化政策学部准教授

【講演概要】

「武士の家計簿」の研究後、忍者について調べたいと資料集めを進めてい

たとき、東日本大震災が起こった。どんな研究より緊急に、地震や津波の

古文書を調べる必要があると、浜松へ来ることを決めた。

中世以降の南海トラフの動きを見ると、百年に一回は地震が発生している。

太田川近くにある遺跡の津波堆積物を見ると、887年の仁和地震と1498年の

明応地震が10mを超える特大の津波が来たと考えられる。浜松では13m高さの

堤防が造られる予定。8.5~9mの津波ならば効果はあるが、10mを超える津波で

は乗り越えられてしまう。そのことも視野に入れ、今後の対策を考える必要がある。

次に秀吉・家康と浜松の関係を紹介しよう。尾張出身の秀吉は、父の遺産を分けて

もらい、針を売りながら東へ旅をして、浜松を訪れたとき、松下加兵衛と出会った。

元禄時代の馬込村は、山伏だけで形成された特殊な村で、松下氏は頭陀寺の豪

族として、その周辺一帯を領地としていた。加兵衛に召し抱えられた秀吉は、引馬

城(現在、東照宮がある場所)の飯尾氏の元へ連れて行かれ「湯に浸かり、絹の衣

装をまとうと、見た目の悪い秀吉も、前よりマシになった」という。以後、松下家の草

履持ちから奉公し、3年ほど浜松に滞在。その後、尾張に戻り太閤にまで登りつめ

た。一方家康は、秀吉のちょうど20年後、浜松にやってきた。家康は、最初は現在

の磐田市見付に城を築く計画をしていたが、信長の命令で浜松に築城。引馬城に

一年ほど滞在し、その後浜松城に移り住んだ。引馬古城一角は、秀吉・家康両者

が訪れた場所であり、現在も当時の面影が漂う趣き深い場所。浜松の遺跡として

実に重要なところだと思う。三方ヶ原合戦の時期、武田軍のあまりの強さに、信長

は前々から「浜松は任せて岡崎へ移れ」と言っていたが、家康は「浜松を去るくらい

なら武士を辞める」と言ったという。武田軍に追われた浜松の民に対して、家康の威

厳を守るには、信玄に立ち向かうことが必要。人間の心理状態を捉えるのに長けた

家康にとって、浜松を死守するのは武士生命で重要だったのだ。とはいえ、家康の

敗走は、家来たちが追いつかないほど猛スピードだったようで、城に戻ったとき、あ

まりに少人数だったため、殿と思われず、なかなか中に入れてもらえなかった、など

の家康伝説も遺っている。

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           講師:磯田道史氏


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