『東西文化の交差点 静岡』
講師 小説家 永井紗耶子 氏
【講演概要】 大河ドラマでは静岡が無関係なことがない。参勤交代の大名や異国の使節も東海道を必ず通り、文化の中心地だった。浜松城は出世城と呼ばれるが、特に印象深いのは水野忠邦。彼は長崎を擁する唐津藩の藩主だったが、水野家は家康の母の実家で、忠邦は老中を目指す。藩内の猛反対を退けて浜松に移り、見事老中となって天保の改革を手掛けた。忠邦の母は側室で実家は江戸の菓子屋だったが、この店は松平定信の贔屓となり、凮月堂の名を賜ったという歴史がある。 『灯台を読む』という本で、清水灯台、御前崎灯台、掛塚灯台を巡った。遠州灘は船乗り泣かせの海。1800年に寧波の船、萬勝号が漂着する事件があった。当時は外国人の上陸は禁じられていたので、医師の本間春伯などが船に行って筆談で交流し、無事に長崎に送り返した。この話は滝沢馬琴が『著作堂一夕話』に書いている。滞在中には日本人が浄瑠璃を教え、中国人が明清楽を教えるという文化交流もあった。また、御前崎沖で座礁した薩摩船を地元の人たちが助けたお礼に門外不出だった薩摩芋の種芋を所望し、今日では名産となっているという逸話もある。御前崎灯台は1874年に完成した。掛塚灯台は1880年に荒井信敬という人が私設で「改心灯台」を作った。しかし、船の座礁は地元の利益にもなるので燃やされたりした。1897年に官製灯台が作られた。掛塚は天竜川からの木材を江戸に送る重要な港で、江戸と天竜はつながっていた。 灯台を巡る中でこの地域の天狗の多さに気づいた。天狗は山岳信仰、山伏の象徴。秋葉山神社は江戸から伊勢に行く道中にも人々が立ち寄る信仰の場所で、秋葉山の参道は三河から信濃へ塩を運ぶ塩の道でもあった。戦国時代には武田の間者が山伏や歩き巫女として往来した。明治時代には神仏分離令により秋葉山の寺は可睡斎に移ったため、可睡斎にも天狗の像や面がある。 静岡は古戦場が多い。『戦国の城』という本の中で書いた諏訪原城は武田の武将が作った難攻不落の城で、徳川と武田の最後の戦の場所だった。この諏訪原城から始まる『勇婦絵本更科草紙』という物語を作ったのが、日坂に住んでいた栗杖亭鬼卵。この人を主人公に『きらん風月』を書いた。鬼卵の大きな功績は『東海道人物誌』という名簿。空前の東海道の旅ブームが起きていた当時、旅の途中で立ち寄りたい名人を勧めるこの本は江戸、大坂、京都で出版された。東海道エリアは能楽師、絵師などが多く住む文化的に豊かな地域だった。『静岡県史』の中でも、近世史については『東海道人物誌』をもとに書かれた部分がかなりある。 浜松でもう一人印象深い人物が、日本左衛門。歌舞伎の大人気演目「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」通称「白波五人男」に登場する日本駄右衛門のモデル。歌舞伎の中での名乗りは「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州、浜松の在...」と始まる。静岡エリアには歌舞伎のゆかりの人が結構いて、人気演目「曾我物」の曾我十郎祐成の妻だった虎御前が島田宿にいたという伝説があり、彼女から島田髷が生まれたと言われている。 最後に、お知らせを二つ。原作を手掛けた『木挽町のあだ討ち』が映画化され、2月27日に公開予定。2月10日に儒学者・海保青陵の足跡を描く新刊『青青と行く』が発売予定。
2025年12月15日(月)21世紀倶楽部月例セミナー
『東西文化の交差点 静岡』
講師 小説家 永井紗耶子 氏
【講演概要】
大河ドラマでは静岡が無関係なことがない。参勤交代の大名や異国の使節も東海道を必ず通り、文化の中心地だった。浜松城は出世城と呼ばれるが、特に印象深いのは水野忠邦。彼は長崎を擁する唐津藩の藩主だったが、水野家は家康の母の実家で、忠邦は老中を目指す。藩内の猛反対を退けて浜松に移り、見事老中となって天保の改革を手掛けた。忠邦の母は側室で実家は江戸の菓子屋だったが、この店は松平定信の贔屓となり、凮月堂の名を賜ったという歴史がある。
『灯台を読む』という本で、清水灯台、御前崎灯台、掛塚灯台を巡った。遠州灘は船乗り泣かせの海。1800年に寧波の船、萬勝号が漂着する事件があった。当時は外国人の上陸は禁じられていたので、医師の本間春伯などが船に行って筆談で交流し、無事に長崎に送り返した。この話は滝沢馬琴が『著作堂一夕話』に書いている。滞在中には日本人が浄瑠璃を教え、中国人が明清楽を教えるという文化交流もあった。また、御前崎沖で座礁した薩摩船を地元の人たちが助けたお礼に門外不出だった薩摩芋の種芋を所望し、今日では名産となっているという逸話もある。御前崎灯台は1874年に完成した。掛塚灯台は1880年に荒井信敬という人が私設で「改心灯台」を作った。しかし、船の座礁は地元の利益にもなるので燃やされたりした。1897年に官製灯台が作られた。掛塚は天竜川からの木材を江戸に送る重要な港で、江戸と天竜はつながっていた。
灯台を巡る中でこの地域の天狗の多さに気づいた。天狗は山岳信仰、山伏の象徴。秋葉山神社は江戸から伊勢に行く道中にも人々が立ち寄る信仰の場所で、秋葉山の参道は三河から信濃へ塩を運ぶ塩の道でもあった。戦国時代には武田の間者が山伏や歩き巫女として往来した。明治時代には神仏分離令により秋葉山の寺は可睡斎に移ったため、可睡斎にも天狗の像や面がある。
静岡は古戦場が多い。『戦国の城』という本の中で書いた諏訪原城は武田の武将が作った難攻不落の城で、徳川と武田の最後の戦の場所だった。この諏訪原城から始まる『勇婦絵本更科草紙』という物語を作ったのが、日坂に住んでいた栗杖亭鬼卵。この人を主人公に『きらん風月』を書いた。鬼卵の大きな功績は『東海道人物誌』という名簿。空前の東海道の旅ブームが起きていた当時、旅の途中で立ち寄りたい名人を勧めるこの本は江戸、大坂、京都で出版された。東海道エリアは能楽師、絵師などが多く住む文化的に豊かな地域だった。『静岡県史』の中でも、近世史については『東海道人物誌』をもとに書かれた部分がかなりある。
浜松でもう一人印象深い人物が、日本左衛門。歌舞伎の大人気演目「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」通称「白波五人男」に登場する日本駄右衛門のモデル。歌舞伎の中での名乗りは「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州、浜松の在...」と始まる。静岡エリアには歌舞伎のゆかりの人が結構いて、人気演目「曾我物」の曾我十郎祐成の妻だった虎御前が島田宿にいたという伝説があり、彼女から島田髷が生まれたと言われている。
最後に、お知らせを二つ。原作を手掛けた『木挽町のあだ討ち』が映画化され、2月27日に公開予定。2月10日に儒学者・海保青陵の足跡を描く新刊『青青と行く』が発売予定。